(白水の泉)
白水の泉に入ることは禁じられていた。
その泉の真ん中には、小さな、島というにはとても小さな陸地があった。そこには、誰も見たことのない生き物や植物があるといわれ、また、そこには腐敗した木々や動物が住んでいるとも言われていた。
誰も踏み入れたことのない土地。誰もが憧れ、恐れを抱く、その場所。




泉のほとりの村で、私は生まれ育ってきた。
小さなころから誰もが先人に口をすっぱくして言われることから、私たち幼子はみな、泉に近づくこと自体がまず希であった。

母は言う。
あの泉は聖なるもので、私たち人間が入ると、不浄な存在として泉に溶けて消えてしまうのだと。

父は言う。
あの泉は邪なるものだから、私たち人間が入ると、その肌を焼かれて二度と陸には戻れないのだと。

誰も触れたことのない泉の水への解釈は、こうして真二つに分かれていた。
どちらにしても、その泉は私たち人間が触れて良い場所ではない。そのことだけは共通してみなの意識にあった。




それでも、知らない、わからないことへの不安は、絶えずひとの心理を刺激して、とうとう私の両親は仲たがいしてしまう。
乱暴な言葉のやり取りは、朝も昼も夜も続き、私は眠れない日々を過ごした。
そして、ある日。
体が限界を訴えて、睡眠よりももっと強制的な眠りについた私が、目を覚ましたころには。

「父さん、」

母はいなくなっていた。




ある村の人は言う。
お前の母さんはきっと、好奇心に負けて泉の水に消えてしまった。

ほかの村人は言う。
お前の父さんはきっと、お前の母さんの身を泉に沈めて焼いてしまった。

父は、肯定も否定もせずに、母がいなくなる前と変わらず、仕事に毎日の生活に、身を砕いていた。
それは、それはとても自然で、だから、とても不自然だった。

「父さん、母さんはどこに行ってしまったの、」

今日も、父は何も言わず笑うだけだ。




成人を迎えるころと同時に結婚をしなくてはならない。それが、村のおきてだった。
私もそんな年になり、毎日のように訪れる求婚に辟易しながら、それでも将来を思えばと、悩みに悩んでいた。
こんなとき、母が居たら相談にも乗ってくれるのだろうが、母はあの日から帰らない。
口数の少ない父とはここ数日、顔を合わせていなかった。娘の晴れ姿を何と思っているのも、わからない。




ある青年は言う。
君の白い素肌はまるであの泉のように澄んで美しい。

別の青年は言う。
君の瞳はあの泉の水底のように惹き込むように果てがない。

賛美の言葉は毎日のように降り積もって、だけどその声は私に響かなかった。

そんな日々を、幾日も過ごすと、朝、久方ぶりに父の姿を見た。

「父さん、どこに行っていたの、」

父は優しい笑みで、強いまなこで、私をただ見ていた。




父は言う。
泉の向こう側にある世界へ二人で行こう。

父は言う。
お前のその美しさ、お前のその清廉さがあれば、きっと行ける。




そして父は私の手をとり、朝焼けの世界へと連れ出すのだった。
私の足は迷いなく、父のあとを追って光を浴びるのだった。




白水の泉は朝日を反射させて綺羅々々と輝いていた。
父は手をとったまま、一足先に泉へと足をつけた。
泉はあっさりと、父を受け入れて、私もまたそれに続く。
何の感慨もない、それはただの水であった。

ああ、なんだ、こんなものを私たちはずっと、―――。




父が陸地の方へ奥へ奥へと進もうとし、私はその後ろを歩んでいく。
不思議と水の抵抗は少なく、足は軽く前へと運ぶことができる。
泉の底は浅く、いつまで経っても腹から上が濡れることはなかった。

ああ、なんだ、私はこんなにも、―――。




姿を現した陸地は、なんてこともない、ただの森のようだった。
なにか、不思議で見たこともないものが広がっているわけでもなく、
爛れてけがれた世界が待っているわけでもなく。
ただただ、初めて目にするのに、見たことのあるような、変な既視感を覚えるだけだった。
父と私は陸地の手前で立ち尽くし、しばらくすると父は踵を返すように陸地を背にした。
それはとてもいきなりのことで、私は体のバランスが崩れていくのを感じた。




ぱしゃりと、水が鳴って。
父は私の体を抱きとめ、だけどうまくいかない。
辿り着くまでは腰までだった泉の水が、急に増えたかのように、体全体を覆っていく。
ついに、父と私の体は泉のなかへと沈んでしまった。




白水の泉のなかは、陽光を吸い取るようにきらきらと輝いている。
首をいっぱいに見上げても、水面はもうはるか遠い。
ふと父と目が合い、私たちはどちらからともなくキスをした。
水底まで深くふかくどこまでも落ちていくようなキスをした。




―――――――――・・・・・・・・、……




何十年何百年と信仰されていたその泉はいつのころにか埋め立てられて、
泉のほとりの村は、かつて誰も踏み入れたことのなかった土地とつながった。
もう、誰もその場所を神聖なものとも腐敗した土地とも思わない。
ただ、白水の泉は汚泥にまみれて、けがれにみちた世界の底へと沈んだのだった。

***
2010年11月18日のブログに書いた小(?)ネタ。
夢の話。友人に「そんな展開!?」と言われた話。

















(咬み合わない世界を問うて、僕らは愛をさけぶのだ)
夜明け前の薄やみ空。肺を突きっ切るような鋭い空気。車輪の軋む音と君の息使い。



「まだ着かないの?」
「まだ着かないの。」



朝日が見たいと僕が言ったので、君は古びた自転車を持ちだしてきた。
未だ月の照る暗がり夜空、星のまたたきがちらほら光る。
吐く息は白く、荷台に乗せた体は、タイヤが段差を飛び越える度に痛む。



「交代しようか?」
「いい、いらない。」



海が見たいと君が言ったので、僕は地図を広げてみたけれど。
僕の手を掴んだ君は、地図を放り出すと冬の真夜中へと連れ出したんだ。
君の吐く息は真白で、時折鼻をすする音もする。



「ねえ」
「なに」
「おしりがいたい」
「がまん、して」
「ねえ」
「なに」
「どうしてきたの?」



こんな真っ暗な世界で独りきりで寂しくて、僕は夢中で君に電話をかけて。
垂れ流した涙も鼻水も明日になればすっきりと忘れてしまうはずだったのに。



「流星群」
「昨日だよ」
「朝日が見たいって、」
「そんなの口実だ」
「海が見たかった」
「それは後付け」



君は僕の閉鎖された世界を突き破ってきてしまったのだ。
完結するはずだった僕の昨日を、続き物にして。
来てしまった!そのことにどれだけ僕が感動をしたか。絶望をしたか。



「君がすきだよ」
「うん、知ってる」
「君がいなきゃ生きてゆけない」
「それも、知ってる」
「だけどね、君は僕じゃ駄目だから」
「それは、」



一段と大きな段差に自転車は揺れて、地面へと落ちた。
本当に?それは、僕の思い違いではなくて?
君の手が大きく震えたことは知らないふりをしよう。
だから、そういうことなのだ。



僕らは不文律の世界でふたりゆらゆら揺れている。



「僕が君じゃ駄目なんじゃない」
「うん」
「君が僕じゃ駄目なんだ」
「……うん」



世界がもしもふたりだけのものだったなら、僕たちは互いの手を取り合って生きて行けるのだ。
だけど、だけど世界は、たくさんある内のひとつ、つまりは僕と君とそのほかの世界とが重なって、そうあるだけで。
僕と君はお互いに外国人のような心持で接しているにすぎないんだ。



僕の真意が君に伝わらないように。
君の本音が僕にわからないように。



「ああやっぱり今日も伝わらない」
「今日もやっぱり君に届かない」

*** 2010年12月16日のブログに書いた小ネタ。
あまったるい話が書きたかったらしい。甘いかどうかはわからないけどw
相思相愛なんだけどお互い片想いのつもり。君と僕の好きのちがい。